2004年7月22日(木)GAP lab



2004年7月22日(木)第19回GAP-Lab(学習会)
場所:立命館大学衣笠キャンパス・修学館2F 第三共同研究会室

■テーマ:
「ジャーナリストの視点から見るゲーム業界の裏側」

■ゲスト:
ゲスト:小野憲史氏(フリーライター&エディター)

【経歴】
1971年生まれ。関西大学社会学部卒。 「PC-DIY」副編集長、「ゲーム批評」編集長を経て、フリーライター&エディターに。 主な連載記事は「ゲーム日和」(京都新聞、1999〜2001)、「電脳漫遊記」(株式新聞、2001〜2002)。「ゲーム雑記」(フロムゲーマーズ、2003〜)など。2004年には「レベルX」(東京都写真美術館)に企画協力として立ち上げから参加。

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●はじめに

 ジャーナリストの視点から見るゲーム業界の裏側という、すごく大きなテーマをいただきまして、ぶっちゃけ何を話せばいいかちょっと迷いました。ただ、僕はゲームマスコミ関連でご飯を食べて、今年で10年くらいになるんですけれど、かかわっていた雑誌が特殊だったこともあって、いろいろユニークな体験をしてきました。それで、今日は自分がどんな風にゲーム業界と関わってきたか、個人的な体験談を中心にゲーム業界の現状について、ざっくりとふれてみたいと思います。

 僕は関西大学の社会学部に4年間在籍しまして、肝心の専門分野についてはほとんど忘れてしまったんですが、一般教養で習った授業にいくつか興味深いものがありました。ひとつは人文地理という授業です。地理学とは、要するに、どこにどんな地形があり、気候があり、特産物があって、ということを客観的に調査・研究する学問で、一方の人文地理学というのは、人間の目で見て感じた地理学です。印象的だったのが、授業で見た琵琶湖のビデオで、湖内の島に住んでいるお年寄りの方々は、この湖を海と呼び、我々が普段捉えている湖とは違う捉え方をしている、というものでした。海で間違いかというと、その人たちにとってはそれが間違いでもなんでもない。見方が違うだけなんです。

 また民法の授業で、有名な「タヌキ・ムジナ論争」(東北地方で猟師が禁猟の時期に、タヌキとムジナは違うものだと狩猟し、最高裁裁判にまで発展したもの。結果は無罪)について学んだときも面白かったですね。客観的に事実を捉えるというのも重要なんですけれど、人間がどういう風に事実を捉えるかで、事実の意味が違ってくるという部分が興味深くて、よく憶えているんです。

 ゲーム業界の現状も、それをどう捉えるかで変わってきます。エンジニアは技術的な尺度から、評論家は日本の誇る3大コンテンツ産業のひとつとしてゲームを捉えるでしょうし、ユーザーはおもしろさの尺度から、流通またはメーカーにとっては、「いいゲーム=売れたゲーム」となるでしょう。何が正しいかというと全部正しい。で、僕らも僕らの見方でゲームを見るんだ、ってかたちでずっと10年間やってきました。そういう見方がひとつしかないと、それは偏った見方になってしまうんですけれど、いろんな見方があると、例えば縦横に並ぶとそれが価値観の布になり、現実をつつみ、にじりよっていくことができる。だからいろんな価値観が多様に認め合える方がいいんだ、だから表現の自由って大切なんだ、と、教えられたわけではないんですが、そんな風に感じて10年間やってきたわけです。

 そんな僕の目から、じゃあ、ゲーム業界というのはどういう風に見えるんでしょう、と。そのためには、僕はどんな価値観を形成してきたんでしょう。そういう話をすると、なんとなく自分自身の話をすれば良いのかな、という感じがした次第です。長い前ふりですいません。

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1.ゲームジャーナリズムの特徴
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●ゲームジャーナリズムとは?

 ちなみに僕自身はジャーナリズムに対して教育や指導を受けた経験はまったくありません。さきほどからの話は、あくまで自分で培ってきた価値観ですので、さしみのつまというか、ああ、こういう見方もあるんだな、という感じでお聞きいただけるとありがたいです。

 ゲームジャーナリズムというものがあると仮定して話を続けます(ないとおわっちゃうので)。ゲームジャーナリズムとはいわゆるコンテンツジャーナリズムです。コンテンツというものがまず根底にあって、そのコンテンツと業界を同時に見るというのが特徴です。だから政治・経済ジャーナリズムというよりは、どちらかといえばスポーツ、芸能に近いジャーナリズムなんです。そこでの切り口は大きくいうと、報道と批評があります。業界の問題、ニュースを論述・レポートする方向性と、そこから生まれてくるコンテンツの作品批評を行っていく二つの側面があるわけですね。ということは、コンテンツホルダーに対するジャーナリズムの立ち位置というのがすごく重要になってくるわけです。ただ最近、出版社やテレビ側がコンテンツホルダーにより積極的に関わっていく動きがあるので、全般的にその辺が微妙になってる感じがします。


●批評=野次論

 僕はぶっちゃけ、批評って「やじ馬みたいなもの」だと思っているんです。野球が好きで、球場に行かれる方なんかはご存知だと思うんですけれど、10年くらいまえのパリーグの試合では、たいていバックネット裏やベンチの上あたりに、試合をよく見ていて、かつ選手をやじりまくる名物おじさんがいたんです。すぐれた野次ってのは、選手を活性化させるし、観客も盛り上がる。選手や監督のプロフィールを叫んだりだとか。ダイエーが弱かった頃の試合だと「代打!王」とかね。それで周りの観客も、野球の歴史がわかったり、ちょっと野球の見方が変わってきたりするわけですね。

 ゲームの批評もわりとそういうところがあると思うんです。単に良し悪しを言うのも重要なんですけれど、違った見方の物差しを与えるところがあるんじゃないか、と。
 ここでポイントなんですが、野次ってのは一人じゃ出来ないわけですね。最低でも選手と聞いてくれる観客という二者が必要なわけです。テレビの前でブツブツいっててもつまらない、実に社会的な行為なんです。ま、飲み屋でやるって手もありますが、ちゃんとやろうと思ったら球場へ行く身銭が必要になる。ゲームでいうなら、もらったゲームと買ったゲームで書く原稿はおのずと違ってくるわけです。

 野次はただの悪口と違って、優れた野球眼や批評眼、ゲームでいうなら業界に対する知識や、ゲームの見方が必要になってきます。それがないものは割とうすっぺらいものになる。さらに言うなら、なぜ野次るかというのは「俺は野球をこう見てるんだ。みんなはどう思う?」いう、周囲と価値観を共有したいという気持ちを、どこか心の根底で持っているからだということもあります。だから、僕がよく業界の人に会って聞くのは「最近何かおもしろいゲームはありますか?」ということですね。そこでどんな答えが返ってくるかで、相手のゲームに対する価値観が無意識のうちにわかってくるわけです。

 ちなみに今までの話は僕が考えたことじゃなくて、「広告批評」の元編集長でコラムニストの天野祐吉さんが、何かの単行本で書かれていたことの受け売りです。すみません書名は忘れました。初めて読んだときに「これだっ!」と膝を叩いたのを覚えています。

●批評の社会性とは

 それで、ここから先は僕のオリジナルです。批評というのは社会性を持つ行為だといいましたが、これをゲームに当てはめると、自分がクソゲーと書いた開発側、メーカーに取材しなければいけないことがあるんです。なんでこんなつまんないゲームをつくったんですか? ということを面と向かって聞かなきゃいけないときがある。それが批評の社会性ということでもあります。そこで学んだことが、そういう聞きにくいことこそ、短いことばで素朴に聞くということですね。それがど真ん中のストレートだろうが、ビーンボールだろうが、ズバッと聞いた質問には必ず切れの良い答えが返ってくる。ストライクゾーンぎりぎりを狙って投げると、ファールでかわされます。

 それから、メーカーとの関係性について編集部時代によく言ってたのが、右手で握手をしながら左手で殴りあう、ということでした。握手してなきゃ、殴った瞬間にお互いが飛んでいって、二度と会えなくなるかもしれないんだと。逆に言えば、編集者やライターを育てるのは、自社の宣伝や取材の受け口となるメーカーの広報だったりもするわけです。僕がゲームの仕事を始めた10年前くらいというのは、広報という立場を超えて、業界をよくするためにいろいろ話してくれる、志の高い人が結構いました。ただ、最近はタイトルの宣伝と企業広報がお互いに分かれていく傾向があります。宣伝の人はどれだけ自分たちのゲームをよく書いてもらえるかがすべてですから、いわゆる悪口を書くと本当に怒られるわけです。一方で企業広報はあまりゲームをやっていないので質問してもわからない。というわけで、この辺がちょっと最近どうかな、と思うところです。

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2.私のゲーム観〜ゲーム批評とともに〜
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 レビューを書く根本的な見方となる僕のゲーム感というものをお話します。僕の関わってきた「ゲーム批評」とも関係があるので、一部その歴史も交えます。

 もともとゲーム批評というのは「マル勝PCエンジン」の晩期の編集部が立ち上げた雑誌でした。実は晩期の編集部はマイクロデザイン(現:マイクロマガジン社)からの出向組だったんですね。それが休刊後、角川から戻ってきて次に何をやるかという話になりました。その時に定期のゲーム雑誌をやりたいが、「ファミコン通信」など既存のゲーム雑誌と同じ土俵には乗れないということで、いろいろ考えた結果、A5版のモノクロ中心の活字系ゲーム雑誌というコンセプトができます。僕が入社したのはちょうどこの頃でした。

 雑誌の創刊立ち上げに参考にしたのは、同じA5判モノクロの雑誌ということで、広告批評(物の見方、面白がり方)、紙のプロレス(ガンガン闘っていくんだという感じ)、本の雑誌(コラムや柔らかい感じ)などでした。その時、マル勝時代の先輩が言っていました。「ゲームのレビューでメーカーさんからいろいろ言われるのがしんどかった」と。自分たちの言いたいことは言おう、おもしろいものはおもしろい、つまらないものはつまらないと言える雑誌をつくろう、というのが企画の根底にあったんです。ただ、だからといって、ゲームのおもしろさとはなんだということは、誰も理論立ててわかっていなかったんです。ですから後々苦労することになるんですけれど。


●成長期(1995〜1997)

 それで僕は94年の春に入社して編集部に配属されて、97年頃、つまり市場の成長期・PSバブルの頂点の頃まで、ゲーム批評編集部にいました。  当時僕らは、なんでこんなクソゲーがこんなに売れるんだろう? と思っていました。

 当時は任天堂とSCE・スクウェアというゲームに関する価値観の対立があって、ゲームとは何か、ということがすごくポイントになっていた時期でした。そこで我々も任天堂をはじめ開発者さんへインタビューに行ったり、ゲームのレビュー記事の内容についてライターさんと打ち合わせを繰り返しながら、ゲームとはこういうものなのかな、と漠然と学習していったんです。なぜかスクウェアさんには取材申請しても通らなかったので、そのままになっちゃったんですけれど(笑) 。

 その頃丁度フランスでワールドカップがありまして、スポーツジャーナリズムの側で新しい挑戦をしたい、という盛り上がりがあったように思うんです。当時よく「ナンバー」や、沢木耕太郎、山際淳司などの作品を読んで参考にしていました。みなさんもおわかりだと思いますが、スポーツなんて観ればいいんです。見ればわかるものについて、試合評などを書く意義とは何なんだ。さらに選手のアクションという、文字にし辛いものを文字化する理由は何なんだ、という疑問が当然出てくると思うんですけれど、それがスーパーマリオをプレイして「これって何でおもしろいんだろう」という自分の悩みとなんとなくオーバーラップしたことを覚えています。

●パソコン雑誌へ(1998)

 1998年からパソコン批評、PC-DIYという雑誌の方に(一旦)移動することになります。人事異動命令ですが、僕も違う世界を見てみたいというのもありました。

 日経新聞の報道なんかを見ていると、PC業界ってウィンテルに支配されている窮屈な世界というイメージがあったんですけれど、原稿をもらったり取材をしていくうちに、そうじゃない新しいものがあるなと思いました。メディアアートなどはその一つですし、音声認識で鼻歌を五線譜(+簡単なコード付)にして出力するソフトなどにとても感動しました。新しいインターフェイスで新しいことをやっているというのもよかったんですけど、ゲームであれば存在するだろう「遊ばせる部分」がない。五線譜が出るだけのなげっぱなしな部分に、ひょっとしてゲームという枠を外した方が、新しいものが出来るかもしれないと思いました。

 また、ちょうどあの頃ってAIBOやASIMOの直前の時期で、ロボット工学がかなり盛り上がっていました。当然取材に行って「未だに制御回路にPentiumProを使ってるんですね」なんてやるわけです。その時ゲームはすごい、ユーザーにほとんど説明書を読ませずに、機械との自然なインタラクションを行わせている、とあちこちで言われました。もしかして、ゲーム業界で培われてきた特殊なインターフェイスのノウハウが、ゲームと異業種との接点になりうるのでは、と漠然に感じたわけです。その時にパソコン雑誌やっててよかったな、と初めて思いましたね(笑)。逆にこの視点からゲーム雑誌をもう一度やってみたいな、とも思いました。

●第二次ゲーム批評(1999〜2000)

 99年、今度は編集長としてゲーム批評に戻ったんですけれど、その頃はPSバブルがはじけて国内市場がドンドン斜陽化していった時期でした(今でも斜陽化していますけれど。国内市場のピークは97年で、ソフトウェアだけで6,800億円くらいあった市場が、今は3,300億円くらいになっています)。とにかく今度はみんな、何でこんなに面白いゲームがこんなに売れないんだろう、と思っていたわけですよ。

 ゲーム市場がひっこむとゲーム雑誌もちっちゃくなっていくわけです。マイクロデザインは、マイクロハウスという広告代理店の子会社です。もともと「無」広告雑誌でしたから、社長から広告が入らないからこんな雑誌はやめろとか、広告に差し支えるからこんな記事は書くなと言われたことはないんです。売れればOK。しかしこの流れで部数が下がっているものだから、売れるようにしろ、考えろとさんざん言われ(笑)、いやがおうにも、作品性と商品性のバランスを考えさせられたわけです。

 じゃあ、どうしたらいいんだろうと。おもしろいゲームが出てこない理由に、ひとつは当然業界が健全じゃない、というのがあります。二毛作、三毛作でいいかげん市場が刈りつくされて、土地自体がやせてきたわけです。だから業界の風通しをよくして、また畑を耕さないとだめだろう。もっと業界の中に入り、密着するような形で問題がどこにあるのかを自分なりに洗い出していきたい、と。ただ編集長という立場だとそういうことが出来ないんで、最終的にフリーランスになりました。

●フリーランス(2000〜)

 フリーランスになって、今まで出来なかったことをやろう、とはじめたのが、ゲーム会社への半常駐的取材です。現在、(株)ダイスという開発会社に今でも週一回くらい通っているんですが、そこで何をするかと言うと……何もしないでただコーヒー飲んで「最近おもしろいゲームありますか?」とかくっちゃべっているだけなんです。でも、それで今までの「メーカーに行って取材室に行って、広報さん同席でプロデューサーの人たちと2時間くらい話をする」形では得られない、生の話がいろいろ聞けるわけですね。また海外のゲームイベントに取材したり、IGDAの仕事もボランティアで行っています。

●鳥の目と蟻の目

 そこで思ったことがあります。ジャーナリストの方ならみなさん同じことをおっしゃると思うんですが、「鳥の目と蟻の目」と言われる、全体に関する視点と現場を注視する視点の両方が必要なんだなということをすごく感じました。

 また、急速に大きくなった市場なんで、ゲーム業界ってこの両方の目を持つ人が少ないんです。日経新聞なんかそうなんですけれど「儲かりますか?」というところが最大のポイントだったりするわけです。だけど数字だけ見ているとそこからこぼれ落ちるものがいろいろ出てくるわけですね。端的に言うと「なんで売り上げがあがらないのか?」ということが現場レベルで見えてこないわけです。それがこういう取材を続けると、いろいろ見えてくるものがあるんですね。例えばどうしてゲームというのはこんなに開発が遅れるものなのか、だとか。開発現場に一番欠けているものってなんだ、とか。こういうものは現場の開発者と膝を合わせて話をして、愚痴りあって初めて見えてくるわけです。

 ただ、こういう仕事はお金にならないんで、いかにゲーム以外のことで効率的にお金を稼いでゲーム関連の取材を行うか、ということが、今の僕の最大火急のポイントになっています。ためしに去年1年の収入を分析してみたんですが、ゲーム関連の原稿料が1割、PC関連の原稿料が3割、それ以外のパンフレットや社内報などの編集業務が6割でした。でも、よくよく考えてみれば、チャラっと簡単に稼げる仕事なんて、実は誰でもできる仕事です。誰でもできる仕事というのは別に僕でなくても、編集者としては、より安く早く大量にさばけるライターに頼むので、へたするとドンドン切られちゃう可能性があるわけです。実際に昨年末、この6割の仕事が全部打ち切りになって、パソコン関連の仕事も媒体が相次いで休刊したりして、今年はホントにたいへんです。ということで、このビジネスモデルには無理があるな、と最近考えるようになりました(笑)。難しいですね。

●私の好きなゲーム

 ボタンを押した感覚…インタラクションの快感といわれますが、これが豊かなゲームがやっぱりいいですね。ゲームは基本的にボタンを押したときの画面の反応がすべてですから、と言い切ってしまいますが、このインターフェイスデザインがよく出来ているゲームは、大体いいゲームなんですよ。それともうひとつ、取扱説明書を見なくても遊べるゲームというのが一番重要です。もう少しかみくだいて言うと、画面を見ただけで遊び方がわかるというゲームです。

 映画はもともと原作付から始まっています。初期の見せ物小屋の時代を除けば、「モーゼの十戒」や「アンクルトムの小屋」など、万人が知っているお話が、動画で見られるというとこから始まってるんです。そこからオリジナルの内容へと進化してきました。つまり、映画における演出論の進化というのは、原作を知らずとも、画面を見るだけでで、どういうストーリーなのか、登場人物がどのような感情にあるのかが同時進行的にわかる、という部分をポイントにしてきたところがあるんです。今でも映画のパンフレットを買うと、あらすじが掲載されているというのは、この時代のなごりですね。ちなみにこれも僕が考えたことじゃなくて、去年のCEDECで聞いた、新潟大学の北野圭介先生の受け売りです。興味がある人は「ハリウッド100年史講義」(平凡社新書)という本も出ていますのでご覧ください。

 これをゲームに置き換えると、画面が出る、ボタンを操作する、画面が出る、ボタンを操作・・・というサイクルがどんどん回転すればいいわけで、ゲームって「あれ、この操作はどうするんだ?」などと、遊んでいる最中に疑問を感じさせないようにするために進化してきた、ということがいえると思います。つまりインターフェースの進化ですね。逆にゲーム中にいちいちマニュアルを読まなければ遊べないゲームというのは、コンソール、特にアーケードの世界ではそれだけでクソゲーです。これは断言できます。PCゲームはちょっと違いますけれどね。

 そしてやはり、新規性、意外性があるゲームですね。上二つじゃ、幕の内弁当というか、「いいゲーム」で終わっちゃうと思うんですよ。やっぱりエンタテインメントですから、みんな「すごいゲーム」が遊びたいんですよね。オンラインゲームやMMORPGは出てきたときはすごかったんですけれど、最近はみんないっしょなんであまり遊んでいません。

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3.業界とマスコミの関係
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●ゲーム業界の今後

 国内市場の低下に歯止めがかからない現状をみなさんもよくわかっていらっしゃると思いますけれど、そんな中でメーカーは海外向けと国内向け製品のさらなる二極化を進めていかざるをえません。ただアメリカ人の好むゲームを、日本国内で牛丼食いながら作れないわけです。これだけゲームがリアルになってくると、例えば主人公にジャン・レノをフィーチャーしたけれど、アメリカ人はジャン・レノが嫌いだから北米では売れませんでした、なんてことが起こり得るし、またそんなことは許されなくなってくるんですね。ということで、国内メーカーにおいてもゲーム開発における現地開発体制と国際分業がどんどん進展していかざるを得ません。

 そんな中から映画とアニメ産業の創造的融合という流れが当然出てくるわけで、EA(エレクトロニクス・アーツ)という会社がスポーツゲームや映画版権ものでそういうことをやっているのはご存知の通りです。他に効率的な開発環境、ミドルウェアの重視指向もどんどん進んでいく、というのが最近のトレンドだと思います。

●ゲームジャンルの画一化」

 中国・韓国で開発者にゲームって何ですかと聞くと、十中八九MMORPGのことだと言われます。欧米ではちょっと迷った後で、FPSとリアルタイムストラテジーと、アクションゲームとスポーツゲームとレースゲームだと言います。つまりゲームの売れるジャンルが固定化してきているんですね。

 ご存知の通りアメリカ市場は好景気なんですけれど、だからといってディベロッパーが自由にゲームをつくることはできません。ディベロップとパブリッシュが日本以上に分かれている結果として、パブリッシャーとしては、おもしろいゲームよりも売れるゲームを作って欲しいわけですよ。だからアメリカ人の開発者にしてみれば「日本市場では『塊魂』みたいな変わったゲームを作ることができてうらやましい」なんて愚痴も出てきたりします。まあ、どっちもどっちなんですが。でもって、ここはポイントなんですが、日本だとそういうゲームばっかり作っていても、ユーザーがすぐ飽きちゃうんです。だけどアメリカ人ってなんであんなにFPSやスポーツゲームばっかりやって飽きないんでしょうかね(笑)。韓国人にしても中国人にしてもMMORPGばかり遊んで。そういうところがちょっと日本人の感覚じゃわかんないんですね。

 そうして売れるジャンルが確立してくると、後は金を持っているやつが勝つわけですよ。それはハリウッドの大作映画と同じで、同じようなものをより豪華に作っていけばいいわけです。当然の流れとしてメガパブリッシャー化が進んでいきます。

 で、日本としてはもはやそんな土俵には乗れないので、ほとんどのメーカーが「アイディア勝負のものをつくりたい」「アイディアで行ける土壌が欲しい」と願っている印象があります。新しいゲームの概念が創造できるのは、プラットフォームホルダーだけなんです。幸いにも日本にはまだ2つプラットフォームホルダーがあり、年末に携帯ゲーム機が2機種発売されるので、みなさん動向に非常に注目されていらっしゃる、というところがあります。

●三大プラットホームメーカーの特徴

 マイクロソフトは基本的にOS屋さんなので、ハードの差異をソフトウェアで埋めていく、という概念が大好きです。言い方を変えれば、これをクールなソフトウェアと呼びます。つまりDirectXですね。要はPS2にWindowsが乗っていたら、彼らはゲーム業界に入ってこなかっただろうと、僕は今でも思います。

 SCEというのは、基本的にはデジタル機器ベンダーなので、やっぱりよりきれいな動画や音質ということになってくるわけです。当然ながら、それらとバッテリーの持ち時間とを比べれば、やっぱり前者に比重がいきます。こんなソフトがつくりたいからこんなハードを出すというのではない、いわゆる汎用性なコンテンツ再生マシンですね。どんなゲームでもそれなりに遊べる方が、みなさん喜ばれるし、僕らも儲かりますよね、というスタンスです。

 それで任天堂さんというのはやっぱり玩具屋さんです。そういうシェア争いはしたくない。似たようなものばかり作っていてはどうせ飽きられてしまう。全く新しい体験や新市場の創出が好きなんですよ。資金力の勝負になっても負けないんですけれどね。ただポイントは、そういう新しい体験というのを、今のユーザーが求めているかっていうことですね。それがニンテンドーDSの一番のポイントになってくるんじゃないかと思います。

●表現の画一化の是非

 ゲーム表現が画一化していくと、デメリットもメリットも出てくるでしょう。映画の進化と同じように、見た目の派手さが進む一方で、内容の成熟も進むと思います。そうするとやはり資金力のあるところが生き残るわけですが、一方でツールの価格が低下して、アマチュアのレベルも進みます。FLASHによるゲーム開発などがそうです。もっともコンシューマではサードパーティ契約やロイヤリティの問題などがあるので、実際は違うんですけれど、そういう傾向があるとは思います。

 それからプラットフォームホルダーは、あたりまえですが場を提供するだけでいいので、業界全体における影響力が低下して、かわりにパブリッシャーの力が上昇しています。PCゲームがそうです。

 一方でゲームというものは、今までびっくり箱みたいなところで進化してきたのは確かなので、映画みたいに表現の確立→内容の進化という形に進めるのかという疑問もあります。似たようなゲームばっかり作っていくことで、ユーザーに飽きられる危険性もあるわけですよね。この辺はポイントですが、僕にもよくわかりません。

●ゲーム=香港映画論

 今、開発現場で取材していると、ゲーム開発って昔の香港映画みたいだな、と思うところがあります。

 「Mr.BOO! インベーダー大作戦」という映画をご存知ですか? よくわかんない映画ですよね(笑)。ストーリーがないというか、印象的なシーンの羅列なんですよ。どうしてそうなるかというと、ご存知の通り脚本がないに等しいから。撮影中におもしろいアイデアが出てきたら、どんどん入れていくので、内容がどんどん変わっていくわけです。つまり最終的に面白ければいいんでしょ?!って考え方ですね。

 ゲーム開発にも似たところがあって、これはよく話すんですが、ドライブゲームの開発をはじめたがどうも面白くない。なら、ターボボタンをつけてはどうだ? まだつまんないので、攻撃ボタンをつけよう、空を飛べるようにしよう。最終的にシューティングゲームになってしまった、と。それが今までのゲーム開発だったんですよ。その前提条件として、多少開発期間が延びても、おもしろいゲームだったら売れたという事情がありました。

 だけど、市場も右肩下がりになっているのに、このままでいいのかと。そろそろみんな、このことに気づき始めている時期です。でも、どうしたらいいかわからない。

 特にコンソールゲームは、極論すれば、テレビとコントローラーを媒介としたインターフェイスで、いかにユーザーを楽しませるか、というロジックがすべてです。今、アーケードゲームで盛り上がっているのはカードゲームやタッチパネル付きのゲームだったりするわけですけれど、これはコンソールでできないインターフェースを使って、新しいゲームを作ってみました、という部分がポイントなわけです。ではコンソールゲームは今後どのように進化していくのか。そのひとつの答えとして、同じ表現方式の枠の中で、より成熟したものを作っていく、という流れは必ずあると思います。

●ゲームマスコミの未来

 そういう中でゲームマスコミはどうなっていくか? 現状大変なわけです。ゲーム専門誌も数が減っています。エンターブレインさんが角川さんに買収されまして、雑誌が喰いあいになることは、両者の編集部も認識されてると思います。よりいい雑誌を作った側が生き残るのは確かなんですが、どっちにせよ先細り感はいなめません。特に攻略本やムック市場は減少しました。攻略本はインターネットの影響が大ですね。また一般誌の中でゲームコーナーが減少しています。SPA!や週刊プレイボーイなどです。昔、ゲーム誌はやがて一般誌のゲームコーナーに集約されて、使命を終えるんじゃないかと考えた時期もありましたが、一般誌でなくなっていく方が早かったです。

 で、その数少ないゲーム攻略本のパイに、最近はゲームメーカーさんが参入されてきています。ナムコさんやコナミさん、カプコンさんなど、自社で出版コードを取られてゲームの攻略本を自社で出版される。営業形態が違うので今はうまくいっていないかもしれませんが、言うまでもなく今後も学習されていくことでしょう。ホームページによる自社情報の露出などもそうですね。

 このようなゲームメーカーの出版社化は、これからの重要なトピックとなっていくと思います。大きく言えばコンテンツホルダーがジャーナリズムにも入ってくるわけです。

 たとえばバレーボールの代表戦をフジテレビしか中継しなかったりするのは、フジテレビがイベントの企画にも入っているからなんですね。ということは、フジテレビのアナウンサーや仲のよいジャーナリストは、より選手に近づいて濃いインタビューがとれたり、場合によっては番組内で密着取材ができたりする。でも、そういうことができない人は、取材の時点で線引きをされてしまっているわけですよ。コンテンツに対してのスタートの位置が異なる。それはよくよく考えてみると、朝日新聞と夏の甲子園であるとか、昔からあることです。

 それがいつゲーム業界にもやってくるんだろう。こうした流れに個人的に危機感を持っています。

●これからやりたいこと

 そんな状況の中で、そういうのはもういいよ、と。そーじゃねーだろバカ、なんて僕なんかは思ってしまうわけですが(笑)、さて、どうやっていこうかと。

 ひとつは、日本のゲーム開発のノウハウを海外に紹介していくことができないか、と思っています。アメリカのゲーム雑誌は日本よりいい、とみなさんよくおっしゃられるんですけれども、そうかなと思うんです。文章のレベルでは、そんなに変わらないですよ。少なくとも日本の開発情報をアメリカやヨーロッパのユーザーや開発者が求めていて、それに対して僕らは有利なポジションにいるのは事実です。実現できる、できないはともかく、任天堂に電話をかけて宮本茂氏にインタビューを求めることができるわけです。あとは言葉の問題だけですね。

 もうひとつ、テレビゲームの特殊なインターフェイスロジック、すなわち「取扱説明書を読ませずにゲームを遊ばせるノウハウの総称」に対して、「ゲームニクス」という造語を勝手につくりました。もとは取材でお世話になっている、ゲーム開発会社のダイスの造語です。こういうことを研究・整備していけないかなと思っています。整備すればゲーム業界外のエンジニアでも利用することができます。ゲームのノウハウを非エンタテイメント分野に転用していく手段の一つとして、こういうことを整備、研究するためにヒアリングを重ねていくこともありなのかな、と感じています。

 PSXが出たときに「これだ! やっと俺の時代が来た」と思ったんですが、全然売れませんでしたね(笑)。方向性としてはまちがっていないと思うんです。ただ任天堂さんが昔、ファミコンでファミコントレードをやられた時に、家庭内で株式売買はやりたいが、それをファミコンでやりたいか? という心理的問題がユーザーの側にもありました。同じことがGBAで動画も見たいか、という問題にもなるわけで、それならソニーのを買うよ、となったり。なかなか理屈では割り切れない今日この頃です。

●印象批評から構造批評へ

 最近「BSマンガ夜話」などでおなじみの夏目房之介さんが、特にゲーム屋の中で人気です。その理由を聞いていくと、どうもキャラクターやストーリーなどではなくて、コマわりとかペン入れの線といった、客観的にみつめられる部分で批評されている、その眼差しがおもしろい、と。

 マンガで言うところのこれらは、ゲームでいうところのインターフェイスなんですね。僕らがゲーム批評をはじめた時にゲーム屋さんでよく言われたのが「おもしろかった、つまんなかったというのは主観なんでもういいよ、と。むしろ、どうしておもしろかったのか、つまんなかったかという理由をたくさん書いてくれ。そうすると次回作に転用できるから」ということでした。それを難しく言うと、印象批評ではなく構造批評をしてくれ、というわけです。

 ただ下手な構造批評って、ゲームのマニュアルの羅列になっていくわけなんです。「Aができる、Bができる、Cができる、だからこのゲームはおもしろい」であるとか、「このゲームはあのゲームに対して、AはできるがBはできない、だからつまんない」であるとか。「グランツーリスモは300台車がでるけれど、リッジレーサーは4台しか車が出ない、だからGTはおもしろいんだ」とか、そういう間違った論理になっていくわけです。それは違うだろうけど、どうしたらよいかというのは、まだよくわからない。だから全体的にひっくるめては難しいけれど、例えばインターフェイスのロジックにだけ注目していくことで、なんとなくとっかかりはできるのかな、と最近は考えたりしています。ですが、まだ取りかかれていません。その前にお金を稼がなくちゃいけませんし。

 最近はIGDAでゲーム開発者インタビューというものもやっています。最近ナムコさんのご協力で「デス バイ ディグリース」という3Dゲーム内で、CG制作ツールのMAYAがどのように運用されているか、というインタビュー(こちら)を載せました。ゲームの開発環境をどう構築していくか、ということが主眼で、ゲームの中身やおもしろさというものについては全く聞いていません。ただ、それでもけっこうおもしろいものになったのではないかと思います。機会があればぜひ読んでみてください。

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質疑応答とフリーディスカッション
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※回答=Aマークは小野氏

Q. 国内市場が低迷している原因はなんだと思われますか?

A. いろんなひとがいろんなことを言って、僕もいろんなことを言いますが、やっぱり「飽きた」ということ。

Q. 独立のコツなどは

A. 私はサラリーマンから転職したわけですけれど、もといた会社から仕事が受けられるようにすることですね。社長とケンカしてやめたわけです。だから僕がマイクロと仕事をしているということはオフィシャルではタブーなんですけれど、現場はそうも言ってられないんです。特にパソコン批評やPC-DIYでよくライターをしていました。だからこの2誌が休刊して、今は厳しいんです(笑)。やめた人間はやっぱり現場の事情をよく知っているし、24時間フリーで使えるわけだから。だから仕事は来ます。逆に言うと、現場から仕事が来なくなるような辞め方はすべきではないですね。

Q. ライターと編集長での仕事の違いは?

A. まず、編集者と編集長の違いを説明してみますと、上に向かって物をつくるか、下に向かって物をつくるか、です。編集者は編集長に向かって作り、それ経由で市場におりていきます。ようするに編集長が嫌だといえば出せないんです。雑誌の編集は民主主義ではありません。雑誌が売れなくて責任を取るのは編集長ですから基本的に専制君主です。奴隷が専制君主になれるかどうかですね。編集長は王様ですからなんだってできます。しかし、売り上げがあがらない時、クビになるのは編集長だけです。

 次に一般ライターと編集長の違いですが、前者は毎日毎時好きなことが出来ますが、後者はクリエイティブではなく管理業務も入ってきます。だから本当に自分の世界を表現したいというのであれば編集長になるべきではありません。ただし編集長は、人脈であるとかその他の部分で得をします。

 給与体系ですと、前者はやったらやった分だけ。後者は一般企業でいう係長〜課長クラスなんでそんなにありません。ミリオンセラーを出したからといって給料があがるわけではないんです。ボーナスは上がるかもしれないけれど(笑)。編集者というのは、どれだけ作家の触媒となって、新しい才能を世に送り出すことが出来るか、と、そういうことに興味がないと勤まらないですね。

Q. 「右手で握手する」という意味を、もう少し詳しく教えてください。

A. 僕の場合は取材に行くことでした。ゲーム批評は広告が入っておらず、しかも扱うゲームは発売されてから1〜2ヵ月後で、かつ良いことばかり書かれるわけではない。メーカーさんにとって、1〜2ヵ月後というのは売り上げがほとんど止まっていますから、パブリシティ価値はゼロなんですね。それでも取材を受けてくれるというのは、ある意味奇特な方だったり、また「いっしょにがんばっていこうよ」という志のある方なんで、取材を受けてもらえるということが重要でした。

 あたりまえですが、広告目的でやっていることではないので、ズバッと聞きます。そういうのが好きな人たちというのが、作り手の中にはずいぶんいるんですよ。そこで話をしていくうちに共鳴する、してもらえるというのが非常に大きいです。そうした取材者=秘取材者の関係作りが仕事の大きな位置を占めています。

 だから取材が受けてもらえないとなると、そこで打つ手なし→終わりとなってしまいます。

Q. ゲームニクスについて、どういったものを整理していこうかというビジョンは?

A.今のところはさっぱりないです。ネットの方でいくつか仕事がもらえるようになってきて、紙媒体でもあればぜひ欲しいんですが(笑)。そういうようなものがあってもいいんじゃない、という編集者もいるので、連載を続けながらコツコツとまとめていければいいかな〜という感じでしょうか。1、2年でどうにかなるような世界じゃないですしね。

 ちなみに、ゲームをつくっている人たちと雑談していて、一番熱く盛り上がるのがキー配置なんですよ。アクションボタンはAボタン、キャンセルボタンはBボタンという原則はありますが、ジャンプボタンや補助攻撃ボタンをどこに置くかで、プログラマーや企画同士が一日中ケンカをしていたり。そういう話は聞くのも楽しいですし、自分の肥やしになりますね。

Q.  いくら国内でゲーム開発のノウハウを培っても、結局アメリカやアジアに真似されてしまい、日本はエンジンしか生み出せないという思いがあります。日本は結局どういう産業をつくっていけばいいんでしょうか。

A. 結局産業規模が小さくなっていくんじゃないか、というご質問になりますかね?
 うまく僕が答えられるかわかりませんが、ひとつは、日本市場の縮小と海外市場の拡大が、リンクしているようで実はリンクしていないんです。要はアメリカやヨーロッパでゲームが売れて、日本でも売れればいいわけですね。でも、それとは別の次元で日本市場だけが閉じてしまっているところがあるんです。それはなぜかというと、やはり、ユーザーのニーズが、今、ゲームにないというところだと思うんです。また、日本のノウハウを海外の開発者がまねているということは事実なのですが、なかなかまねきれないんですね、これが。だって、僕らは香水はいっぱい作れても、シャネル(+ブランドイメージ)なんか作れないんですよ。だからまだまだそう悲観することはないと思います。

 さらにプラットフォームホルダーが国内にいる、特に任天堂さんなんですけれど、新しい種と仕掛けを提供できる立場にあるというのは、常に世界の他の市場より一歩先に立てるということなんです。マイクロソフトさんが昔、ハードウェアからソフトウェア(OS)を分離させることで、市場の覇者になられたように、新しい市場のルールを自分たちで作り出せるというのは、大きな優位点だと思います。

 やっぱり、いくら欧米やアジア市場でも飽きる時はくると思うんですよ。そこで彼らが今のゲームに飽きた時に、日本にはこれがありますよ、と提案できるかどうか。その努力を、世界一クレバーな日本のユーザーに対して続けていく必要があるんではないでしょうか。例えば最近だと「ムシキング」とかね。

Q. 90年後半の状況をみると、ゲームってメディアだと思ってたんです。しかし、今の状況を見ると、ひょっとして、ゲームってメディアじゃなく、単なるおもちゃに過ぎなかったのかもと、汎用性がなくこのまま廃れてしまう可能性があるんじゃないか、と。一般雑誌メディアの扱いもすごく雑で、ゲームはもういいよ、というか、扱わなくなってきていますし。結果論的にはゲームはメディアになりきれなかったのかなあと思ったりするのですが。

A.メディアというのを文化と置き換えてもいいと思うんですけれど、じゃあプロ野球は文化かというと、客が入らないから、とオリックスと近鉄が合併しちゃったりするわけですよ。本当にするかは置いておいて。僕らなんか、野球は文化じゃなかったのか?と言いたいわけですけれど。

 今、世の中が経営効率だけで動いているので、日本人すべてがそういうものになっていいのか、と思うわけです。その大きな流れに映画やゲームもあるので、我々としては「売れたものはいいゲームだ」という価値観以外のものさしを定義し続けることが大切なんじゃないでしょうか。わからないですけれど。

Q. 編集側とメーカー側がべったりという関係についてどう思われますか

A. それですと、極論すれば「つまんねーぞ、バカ」なんて記事は書けない訳です。以上。(笑)

Q.プラズマテレビの中身はブラックスボックスだったりするわけですが、日本のゲーム開発ノウハウを海外に紹介するということは、結局どういうメリットがあるんでしょう。

A. 例えば、メトロイドプライムというゲームがあって、アメリカ人はメトロイドがめちゃくちゃ好きなんです。日本よりアメリカの方が商品価値が非常に高い。だけど、なぜ彼らがそんなに好きなのか、日本人にはその理由が完全にはわからない。日本人がメトロイドというコンテンツをつくるのは、もはや無理なんですね。じゃあどうするかというと、日本の京都のスタッフがアメリカへ行ってディレクションし、アメリカのスタッフでつくるわけです。日本のスタッフがいないと、触覚の部分でクソゲーになってしまうので、版権部分を差し引いても、任天堂欠くべからず、なんですよ。ディレクションする人間が結局一番偉いので、メリット大かなと思います。

Q. 独自に掴んだネタが、メーカー拒否で載せられなかったことから、ゲーム業界にジャーナリズムなんてない!と叫んだ外国人ジャーナリストの記事を読んだことがありましたが、それについてどう思われますか

A. 僕の友人もそんなことを言っていましたね。そこが難しいところで、じゃあ、それで雑誌が儲かるんですか? というところも出てくるわけですね。短期的には刺激があってよくても、次からメーカーさんから写真素材がもらえなくなると意味がないですし。ゲーム批評では写真素材はほとんど自分たちで撮影していました。それでも携帯ゲームやアーケードゲームの素材はメーカーから借りてしました。それでたまにゲーム画面が載らない記事があったりするわけです。新聞の方なんかそうですけれど、売り上げのことを考えなくてすむジャーナリストは楽ですね。ほんとうにそう思います。

Q. ネットを舞台に、商業誌とは違った視点や鋭いゲーム批評を書く人も増えてきたと思うんですが、注目している人やおもしろい人はいますか?

A.商業編集者なら、常に探しているんじゃないでしょうか。ゲームライターではわかりませんが、漫画や小説などでは当たり前ですからね。がんばれって感じですね。

 ただ、個人的にはある程度業界のことがわからないと、書く内容も薄っぺらくなるんじゃないか、ということもあります。だけど、ナンシー関さんの消しゴムコラムなんて、全く彼女のセンスだけで、非常に面白い内容になっていました。ゲームライティングの分野でも、アマチュアの世界からそうした印象批評が出てくるといいな、と思いますね。

Q. 「ゲーム批評は広告を取らないことで記事を客観的にしている」というような趣旨があったと思うんですが、飯野賢治さんが、あれは広告をとりつつそういうことをやるべきだ、とおっしゃっていたんですが、それについてどう思われますか。

A. おっしゃる通りですね。その通りで、僕も広告を取ろうとしました。でも全然取れませんでした。本当にそうだと思いますよ。

(以上)